キリスト教の歴史(Ⅰのみ要約)

キリスト教の歴史1

キリスト教の歴史2

キリスト教の歴史3


人類の世界史の一つのテーマである「宗教」をキーワードとして、その歴史を振り返り、現代の世界が直面する課題の一角に光を投げかけるべく企画された書物です。

 さて、猛スピードで突き進んでいるかのようなかのような現今の世界で宗教の地位はいかようであろうか。目に見える形では、宗教が人間の行動と心性に及ぼす要因の、マイナス面の大きさが、これまでよりも顕著となってきたかのようである。イスラエルとイスラーム・アラブの対立は継続している。湾岸戦争以後、同時多発テロ、アフガニスタンとイラクへの軍事作戦はキリスト教国アメリカとイスラーム原理主の敵対を基盤としている。また、新興のカルト宗教団体が信者の家庭を破壊するような現象は日本、韓国、アメリカで生じ、日本での大量殺人を実行する集団が現れたことも記憶に新しい。他方で宗教の意義のプラス面の復権も指摘できる。キリスト教について言うのであれば、社会主義諸国の政権崩壊によってロシアその他の東方教会の強勢が盛んになり、カトリックのこれらの地域への伝道再開が知られる。経済のグローバル化、情報高度化、政治の効率化がもたらした格差の大きい社会で取り残される弱者、希薄化する人間関係などの問題が深刻化している。その状況に対して、心の癒し、新たな二元関係の構築弱者への実際的・社会的な救済などのために宗教が期待される度合いはむしろ高まっていると言えるだろう。このようにみてきたとき、未来を見据えるために世界史を振りかえる作業の重要な試みとして、宗教を、そしてその一部であるキリスト教を取り上げることは再び意味を持ってきた、といえるのではないだろうか。

歴史の中のキリスト教

 キリスト教は、一世紀半ばユダヤ教徒、ナザレのイエスを神の子と信じるユダヤ教徒たちの間に生まれた。ローマ帝国の主要な宗教となり、論争を得て勝利した正統教会が、カトリック・キリスト教であった。カトリックは八百年までにはヨーロッパに広がるが、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ(バサンツ)帝国の教会とは分離していく。カトリックはヨーロッパ全域で人々の生活までに浸透した。首長であるローマ教皇は大きな崇敬を受け、一時は政治にも大きな力を振るった。神学も整えられ、ヨーロッパではどの町にも教会があり、聖職者が大衆の生活に深くか関わるようになる。東方のキリスト教は、ビサンツ帝国の衰退にもかかわらず、ギリシャからロシアへ広がり、そこでさらなるまたイスラームの進出した地域でも、キリスト教はイスラーム神学に影響を与え、キリスト教自体、少数ながらも存続したものである。ヨーロッパではカトリックの世俗化への批判として十六世紀に宗教改革が起こり、カトリックとプロテスタントの対立は成長著しい主権国家の動向と関わって、ヨーロッパ各国の教派(宗派)が出来上がっていく。そして植民地獲得に乗り出したヨーロッパの強国は、キリスト教布教をも促進してアジア、アフリカ、アメリカ諸大陸へとキリスト教は拡大し、現地の諸民族の宗教・文化と衝突し、融合する歴史を展開した。南北アメリカ大陸とオセアニアはキリスト教化し、アジア、アフリカでも多くの国でキリスト教は有力な宗教となった。かくしてキリスト教徒は現在、世界人口の約三割を占めるといわれ、イスラーム、仏教とともに世界三大宗教の筆頭にあげられるのである。

キリスト教の母体としてのユダヤ教

 

 キリスト教は一世紀の三十年代にローマ帝国の属州ユダヤと、旧ユダヤ王国のヘロデの一族が領主として統治していたガリラヤ地方に出現した。それはガリラヤのナザレ出身のイエスの、短い布教活動をきっかけに生まれた。イエスが歴史上実在した人物であることは疑いえない。そしてそのイエスはユダヤ人であり、ユダヤ教徒として育ち、成人した。彼の宣教の内容であった神の国、愛、立法などの言葉も概念もすべて、その時代のユダヤ教のそれであった。

 彼の死後その復活を信じ、彼を神の子と信じることを基盤とし、生前の弟子たちを中心として生まれた集団をキリスト教徒と呼ぶが、かれらもまたユダヤ教徒として生きていた。キリスト教の歴史はしたがって、その母体であるユダヤ教の歴史まで、少し遡って始めなくてははならないのである。まず、ヘブライ民族のイスラエル宗教がユダヤ教として出発した時点から眺めていこう。ユダヤ教としてローマ時代まで続いてきたこの宗教の最終的な形が成立したのは、ユダヤ人が新バビロニアによる捕囚から帰還した前六世紀のこととされる。エズラとネヘミヤによるエルサレム城壁と神殿再建とモーセ律法の権威の確立による神政共同体の再建、がそれである。以前祭司の組織と権威が確立し、律法学者による研究と解説が進められ、それに教導されたラビたちが一般のユダヤ人を指導するユダヤ教本来の形が整えられた。

 ヘレニズム世界のユダヤ人はプトレマイオス朝エジプトのもとにあって自治を許されていた。エルサレム神殿の大祭司が伝統的な長老会議を主宰していたが、プトレイマオス宮殿い取り入って力を得たユダヤ人上層階級のトビヤ家などが上級司祭職を占めて、いっそうにヘレニズム化を進めた。前二百八十年ごろにはアレクサンドリアでギリシャ語訳も成立した、前百年代に入るとユダヤはセレウコス朝シリアの領有するところとなった。その王たちはローマとの戦争のゆえもあって支配下の諸民族からの収穫を強めていた、とくにアンティオコス四世エピファネスはユダヤ人への激しい弾圧を実行し、民衆の抵抗を機にユダヤ教を禁止した。王はさらにエルサレムをギリシャ風の都市に改造しようとし、神殿にはゼウス像を持ち込んで礼拝させ、住民にはユダヤ教からの背教を命じた。ユダヤの地方祭司であったハンスモン家のマッタテヤ一族が反乱に立ちあがった。この反乱は長期にわたった。一族の中で英雄的な活動をしたイェフダの異名マカピ(まさかり)をとって、この反乱はマカピ―戦争と称される。結局セレニウス朝の内紛も手伝ってユダヤ人は独立を獲得し、ハスモン王家が成立した。この戦争は長文の「マカベア書」として残され、「旧約聖書外典」にも納められることになった。そこはユダヤ民族を含めて、ヘレニズム王の弾圧化に殉教する人々の劇的な記述が見出されるが、この重教記録はのちのキリスト教の殉教伝の源流となった、としばし指摘されるところである。

 ハスモン家のユダヤ王国は必ずしも神政一致を進めたわけではない。王権とユダヤ教のそのものに依拠する諸階層とは緊張関係を引き起こす場合もあった。ハスモン家は、貴族のツァドク家が代々占めていた大祭司を奪ったが、ツァドク家を中心とする貴族、大商人や寡頭政治を志向するグループは以降も有力な社会的地位を背景に発言権を維持した。彼らはサドカイ派である。彼らは常に権力志向で、神殿祭儀を重視し、聖書解釈においては保守的で、モーセ五書の権威しか認めず、現実主義の立場から死者の復活も認めなかった。

 より重要な役割を果たすはずのはファリサイ派であった。「バビロン捕囚」時代に神殿を失ったユダヤ教を維持するために、律法を中心にその研究を深めて一般ユダヤ人に教義とのその祭儀の実行を守らせようと努力する啓蒙主義的な知的エリートが現れた。彼らが「分離」を意味するファリサイと呼ばれる人々で、各地のラビたちが調練し。またユダヤ教徒大衆の尊厳を受けて、大きな影響力を持つことになった。

 イエスの登場

 

本書は、イエスが前七/八年、ユダヤの北辺ガリラヤの農村ナザレに生まれた歴史上の人物であることを前提とする。新約聖書以外のヨセフタキトゥスの証言が知られ、なにより新約の福音書、使徒言行録、書簡の一貫した、イエスの存在を跡付ける叙述から、彼の実在に疑いの余地もない。三つの共同福音書はイエスの語録に遡るが、文書としての成立はイエスの市から数十年後以上経たのちであり。初期教会の信仰の産物である以上、史的事実には困難さが付きまとう。イエスは敬虔なユダヤ教徒として成長したのであろう。三十年ごろのユダヤ教の教えは先述のように全体的に進行の面でも政治的にも多様であった。ファリサイの律法解釈はいたずらに衒学的となりいわゆる律法主義に陥り、彼らと一般民衆との懸隔の拡大も深刻になり、一部の教徒に危機感をいだかせることになった。祭儀であれ、人間の救いや復活であれ、祭司と学者が知識を独占し、大衆は教え導かれるだけ、という状態であり、社会的には貧富の格差、職業の貴賤、性差別が前提とされ、被差別民、病者がさげすまれ放置されていた。ユダヤ教の啓蒙主義たちは前二世紀初めごろ、荒野にクムラン教団を形成し、禁欲的に聖書の学びと律法の実践を追及し、祭司・ファリサイの権威に批判的な立場にあった。その中からさらに先鋭な批判者として洗礼者ヨハネが現れた。ヨハネはガリラヤの四分領主アンティパスの振る舞いを批判して処刑されるが、その運動は政治的な反体制ではなく、あくまで領主の論理=律法違反を糾弾するに留まっていた。ヨハネは神の国とメシアの到来の切迫性を感じ、ユダヤ教の指導者層のだらくに怒りと危機感を覚え、ユダヤ教の指導者層に堕落に怒りと危機感を覚え、悔い改めよ、とのメッセージを発し、洗礼運動を開始した。この運動に共感する者が多く表れ、イエスもその一人となったのである。

 彼の説教の内容は神の国の到来の近さと悔い改めの要求という厳しい面だけでなく、神の赦し、愛、律法というくびきからの解放など、喜びとしての福音であった。ことに貧者、女性など社会的弱者への慰めが特徴的であった。身の回りの事柄や自然を取りいれた譬えも豊かなイメージを喚起する者だった。聞く者を驚かせる価値の逆転、絶望の打開、おごりに対する転落への鋭い示唆の言葉もあった。今悲しむ者たちへの祝福という観念はクムラン教団にあったが、「敵を愛せ」というイエスの言葉はユニークで衝撃的だったろう。

 

 「十二弟子」はの血の教団の理念的な数値であろうが、イエスの周辺に弟子集団が形成され、そこにある主の組織化、階層化が存在したことは想像できる。ヨハネにも弟子がおり、このような師と弟子の集団は当時それほど珍しいものではなかっただろう。しかし手段の形成は、ユダヤ教指導層からも、領主アンティパスから警戒される理由にはならなかっただろう。皇帝への税問答や、レヴィラート婚(夫を亡くした妻が夫の兄弟と結婚する習わし)に関する問いかけも、イエスに対する中央情報収集行動を反映する伝承かもしれない。

原始教団

 イエスの刑死後、弟子と女性のあいだにイエスが生前の予言通り復活した。その姿を見た、という体験が確信として共有され、継続的に集まる最初のキリスト教徒のグループがエルサレムに形成された。イエスの言葉が想起され、彼を神の子として崇め、その再臨を待つ礼拝が行われたのだろう。数十名程度の集会から始まったようであろうが、中核にはペトロ、ヨハネらの十二弟子、イエスの兄弟ヤコブがいた。しかし、彼らは自分たちがユダヤ教徒であるとなんら疑っていなかったと思われる。

 原始教団は徐々に拡大し、イエスを直接知らない信者でも指導者的役割を果たす者もあらわれ、素朴ながら教会の組織化もはかられる。洗礼、癒し、悪霊祓いに加え、外部の人々への食事の施与も行われ、これら実務の担当に「執事」職が設けられた。最初の執事はヘレニスとであったという。原始教団にはユダヤ教にとどまる意識がまだ強かったというものの、執事の一人、ステファノがディアスボラのユダヤ教徒からの攻撃を受け、大祭司に訴えられる事態となり、彼はその場でユダヤ教の神殿中心の教えを激しく論難した。そのため彼はサドカイ、ファリサイ両派の怒りを招いて、石うちの刑で殺された。

使徒パウロ

 

 ステファノの殉教事件までは、熱心なファリサイ派であったパウロが、その後神秘的体験を経てキリスト教徒となる。彼はダマスクやアンティオキアの教会と関係を持ち、しだいに指導者的存在になっていった。このパウロのこれ以後二十余にわたる使徒、伝道者としての働きは初期キリスト教の歴史上決定的な重要性をもった。東地中海、異邦人世界への驚くべき伝道の拡大、教会を建てるとともに書簡によってそれらを指導、強化した熱意、そして何よりもイエスが救世主キリストであるとの信仰理解を説明して初期キリスト教教義を確立したこと、がその功績である。

 パウロは初め他の教徒からの疑いの目で見られたかもしれないが、バルナボを理解者としてダマスクのシナゴーグで神の子キリストについて説教しバルナボの紹介でエルサレムの教会のペトロら指導者と知己になる。その直後からキプロス、小アジアに伝道旅行を行った。四十八年ごろエルサレムで歴史上最初といえる教会会義が開かれ、パウロも参加した。議長役はヤコブでかなりの論争もあったようだが、ペトロとパウロが主張した異邦人伝道が承認された。他方でユダヤ教律法法からの脱却の主張は一部保留された。パウロは以後、フリュギア、ビシディアなどの奥地にも立ち寄りながら小アジアを横断し、マケドニア、ギリシャを巡る第二次伝道旅行にも出かけた。彼はギリシャ都を拠点にしてそこに滞在した。エフェソスでは現地のアルテミス神殿の関係者の反感が強く、騒動が生じ、フィリピでは投獄されることもあったが、コリントにはすでにかなりの規模の教会があり、パウロはここに長く滞在した。また、彼は大地次旅行で総督セルギウス・パウルスと、第二次ではコトントでアカイア総督ガリオと会見したとも記されている。これらのことの史実性については疑問がぬぐえないが、パウロの伝道が都市を対象として、上層民への働きかけを重視したことは間違えない。

 一度エルサレムに戻ったパウロはその後第三次旅行にアンティオキアから出発した。各地の教会の発展と、コリント教会などの退廃的傾向や異端の脅威も知らされる。ローマ教会との交流も行った。しかし、エルサレムにおいてユダヤ教徒からの攻撃が強まっているとの報告を受け、敢えてパウロはは帰還した。彼はまずエルサレムの神殿に行き、清めの式を行ったが、結局捉えられ、再びローマ属州となっていたユダヤで総督の裁判を受けることになる。社会を混乱に陥れたとの罪を問われ、総督フェリクス、フェトゥスの審問が続く中、パウロは自分がタルソスで生まれて以来ローマ市民権を持つことを表現して、その特権を行使し、皇帝の法廷に訴えた。彼はローマに護送され(58年頃)すでにかなりの規模に成長したローマ教会で、裁判を待ちつつ二年間の伝道をした。新約「使徒言行録」の記述はここで終わるのである。

パウロ時代の教会

 

 パウロは具体的な伝道、教会の建設、指導に大きな働きをなしたが、わけてもキリスト教信仰の首尾一貫した教義を打ち立てた功績は計り知れない。原始教団が有していたのは、弟子たちの記憶のほかにはイエスの語録や生涯を記した初期的な福音のみであったろう。パウロはイエスを直接知らなかったが、それだからこそ「神の子キリスト」を整然とした言葉と概念を持って解釈し、明確な信仰的観念に位置づけたのである。彼は若くしてファリサイ派の学問を身につけ、おそらくギリシャ哲学とグノーシス思想を持っていた。彼はイエス・キリストの受肉と十字架の死、復活、肉の罪から逃れられない人類の贖罪のために神によって成し遂げられたことだと考えた。その事実によって、モーセの契約に代わる新しい契約がもたらされた。古い律法は捨て去られ、このことを信じる者は、間もなく実現するキリストの再臨と最後の審判のときを、教会に集い、聖徒の交わりをなしつつ待て、というものであった。キリストを神の子と信じるという一点を除くと、パウロの思想にはファリサイとの共通面が多くあった。また、当時ローマ帝国には広くあったグノーシス思想がキリスト教徒とふれて、異端的キリスト教思想を作り上げる状況が起こり、すでにその動きにパウロは攻撃を加えているが、グノーシスに近い神秘主義的要素をパウロの思想が持っていたことは事実であった。しかし、彼自身はその信仰理解をキリスト教の正しい信仰として、精力的に語り、また書簡によって周知合わせようとしたのであった。ただ、近年の研究の示唆するところは、例えば四つの福音書の存在が、四種の原始教会のグループがあったことを示す、いわれるように、少なくとも一世紀のキリスト教の教会は統一した教義というものはまだ確立されていなかった。ユダヤ教の要素を多く残すもの、特定の使徒やカリスマ的人物に従うもの、洗礼・復活などについて認識に置いて欠けたり特集であったりするものなど、極めて多様だったと想定されるものである。だからこそパウロがガラテア、コリント、エフェソなどの教会に向けた書簡で、キリスト教、罪、律法、復活、信仰と業、あるいは礼拝や説教などについて繰り返し叱責し、矯正しなくてはならなかったのである。 

 しかし、教会そのものは小アジアのエーゲ海岸、マケドニアからローマまで、多くの都市に生まれた。おそらく個々の教会はまだ独自の会堂は持たず、教徒のうちだれかの私邸に集まっていたのだろう。教会の核は監督(司教)、長老と呼ばれる少人数のしかし複数人の指導者体制だったのだ。弟子と使徒とは特別の呼称とされ、パウロのようにいくつもの教会から指導を求められたのであろう。多様な教会が共存していたとはいえ、都市間で教会の交流は頻繁であった。教会によりまたその群の大小により違いはあったが、役職としての預言者、教師などがパウロによってあげられている。執事もエルサレムから他教会にも広がっていった。各教会が礼拝をおこない、信者の共同を意識したために、このような組織が定められていった。教会間の交流から、礼拝形式、文章、そして説教、組織のモデルらしいものが生まれ、均質の流れが早くから生まれていたことは間違えない。さて、パウロが護送された当時のローマにはかなりの人数を擁する教会があった。それ以前にパウロがローマ教会にしたためた書簡には二十数名の名があげられ、ナルキッスという皇帝の解放奴隷の家のものが含まれていたことが注目される。

 イエスの死後、二十年のうちにキリスト教会はローマ帝国の東地中海地方、パレスチナ、小アジア、バルカンそしてイタリアの首都ローマなど二十を超えるほどの年に存在するようになった。それぞれの教会はローマやコリントなどを除いて二十数名、数家族にすぎなかっただろう。パレスチナの外の都市へは、使徒たち信者が旅して訪れ、現地のユダヤ人に伝道したのだのであろう。したがってどの教会も最初はユダヤ教からなり、当時ユダヤ教的要素を守り、分離した新しい宗教という意識は希薄だった。パウロですらユダヤ教への尊敬の念を失わない姿勢を示したが、しだいに異邦人、それも先述した「神を畏れる人」たちからの改宗者が徐々に加わっていった。しかしユダヤ教徒の多くはキリスト教徒に敵意を持ち、しばし民衆による迫害が生じることがあった。迫害はエルサレムでまず起こり、小アジアのビシディアのアンティオキア、イコニオン、マケドニアのテッサロニキなどでも生じた。ユダヤ教徒の間で連絡が取られていたことがうかがえる。しかしその迫害によりキリスト教徒が都市当局に告発されるようになった場合、都市の役人や属州で裁判を担当する総督は暴動を抑え、公平に扱として、キリスト教徒を犯罪者として扱うことはまだなかった。

「使徒言行録」末尾、パウロがローマで伝道している、という記事を持って新約からの原始キリスト教の情報は途絶える。新約の後半の諸書簡と黙示録は一世紀後半から二世紀初めの成立であるが、その後の歴史を具体的には知らせてくれない。しかし、帝国のいくつかの都市に生まれたキリスト教徒の群が遭遇するできとごは若干の空白ののち、新約に続く新たな史料から跡づけすることができる。本書では、この新約後一世紀後半からのキリスト教を書いキリスト教と称するようにしたい。ローマ市のキリスト教徒の数は少しづつ増え始めて行ったと言われている。パウロと前後してペトロもローマに来たことは一世紀末のクレメンスの書簡を初めてとして、多くの伝承が二人の使徒をローマに結び付けていることからも史実とみなしうる。加えてこの二人の使徒の幕は、早ければ二世紀半ばにヴァティカヌス丘とオスティア道沿いにあるとされていた。しかしペトロについてはローマで殉教の死を遂げたとの伝承が外典に残されているが、その成立は四世以降と思われてる。要するに二人の使徒の死についての詳細は不明ということになる。

初期キリスト教徒の心性

 

キリスト教はユダヤから地中海東方に広がっていくが、まず都市のごく少数のグループとして存在した。原始からキリスト教は実数の小ささに不釣り合いなほど多数の文章を生み出している。そこから小さい都市の教会はかなり知的なエリートが中核となって彼らが教理上も教会組織の上で強い指導者を発揮したものと思われる。解放奴隷モスクなかったと思われる。たまたまその都市に寄留している他の都市民もいたろう。キリスト教徒はごく小さい群で、しかも都市のユダヤ教徒をはじめとする市民たちからも冷ややかな目で見られ、時に迫害を受ける危険があった。この状況、教徒数が少しずつ増えて行ったにしても、三世紀半ばまで基本的に変わらなっただろう。そのような背景でローマ皇帝社会ではやや異質な心性と行動規範をもつグループが形成されていった。イエスの弱者に対する評価の教え、パウロの「ガラテヤ」などにみられる、ユダヤ人・異邦人人間の隔ての廃棄の主張はある程度実現されていた。教会には使徒、監督(司教)を頂点とする、のちに位階制として定着する上下関係が当初からあり、決して民主的ではなかった。しかしその序列は都市の社会的階層に寄らず、いわば信仰の序列を原則としていた。徐々にではあれ都市の富裕層やその妻などが入信するようになっても教会で有力者として遇されたわけではなく、初心者には訓練の時間が課された。女性が差別されずに礼拝を共にしたのはもちろん、解放奴隷たちの役割は自由人と変わらず、、奴隷も世紀の教会員であったろう。社会一般における身分の違い、心性さが教会ではまったく拝棄されていたといえないが、神の前に置いて平等が建前とされ、実効性をも持っていたことは間違いないだろう。



投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です